3/10 晴れ 江ノ島〜鎌倉
江ノ島 稚児ヶ淵 |
それは、けだるい昼下がりだった。
ダンナの出張について小田原、藤沢へとコマを進め、「江ノ島線」駅前喫茶で解凍ピザの昼食を摂る。その先からは独り、江島神社に詣でて、再度、江ノ電に乗り、今、鎌倉に通じる交通量の多い由比ガ浜通りをブラブラしている。
江ノ島海岸の潮風と俄かに春めいた陽気のせいか、どうしようも無くけだるい車道だ。
「朝も結構早かったからなぁ。」
豪族の末路を彷彿させる骨董品屋の明かりの鈍さに、敷居の高さを感じつつ、ふと、一軒。どうぞお入り。と、言わんばかりの構えをした店に、つと、足が止まった。
はなから骨董になんて何の興味もなかった。ただ、古びた棚に思い思いに並んだ埃をかぶった皿を、ぼうーっと眺めていると、なんだか目の前がクラクラっとして、意識のかすれたその奥で、大正の時代、細かな柄の器を手にした和服姿の貴婦人が、梅型の和菓子かなんかを上品に盛り付けて、だんな様にツツと差し出す姿が、なぜか、ちらついたりして、疲れた私を、ずんずんとカーキ色の世界へと誘っていく。
骨董の持つ独特の臭いに誘われて、店をさらに奥へと進み、狭い通路をぎこちなく客とすれ違いつつ、腰掛けたままの店主に軽く会釈し、さらに、そこからUターンして、反対側の通路を再度、青年とすれ違いざまに。何かがすーっとすれる音がして、一寸の間の後
「カシャン」
あっ、とうつむいたその先で、床に転がった徳利が、ものの見事に割れていた。
真昼の太陽に煽られ、ついつい脱いだフリースの上着を腰に巻きつけていたのが、羽織ったジャケットの前すそをふくれ上がらせ、それが青年とのすれ違いざまに、陳列の徳利に引っかかって、はずみで落ちて割れた。紛れもなく私の過失だった。
「すいません」
沈黙を突き破ったのは、思いがけなく青年の方だった。
「すいません」
と、慌てて言葉を重ね、二人してしゃがみこみ、欠片を拾い集める。
「いいですよ、置いといてください」
店主は箒と塵取りを持って、慣れた手つきで始末する。
(助かった。)ため息を飲み込もうとする肩越しに
「良かぁ ないでしょう」
青年が、きっぱりと言い放った。
「弁償しますよ。いくらですか? いや、僕、それ、買います。」
決然とした青年のそばで、不甲斐なくも私の思考は、さっき、徳利が砕けた時間で、止まったまま。
「1300円ですが・・・」
遠慮がちな店主から、割れた徳利の入ったビニール袋を受け取る青年。
遅れてはならじと、夢中で財布をまさぐり、青年に千円札を差し出す私。
「別にいいのに。じゃぁ、半分だけ。いや、これで。」
と、青年は500円玉を私に返しつつ「いやぁ。ホント1300円でよかったですよ。1300円で」
と笑った。
「えぇ」
かろうじて頷いた私は、取るものもとりあえず店から飛び出し、夢中で駈けた。
ふと気が付くと、いつの間にか、由比ガ浜海岸にまで出ていたが、それでも構わず、波打ち際まで、足元を掬われながらも、ずんずんと歩き続けた。
いい歳をして、あんなだらしない格好をしていたから、粗相をしでかしたのだ。しかも、私よりもはるかに若い青年に庇ってもらったりして。言い訳一つ言えず、お礼さえも言えず。
ひとしきり自分を責め続け、冷たい風に打たれて、どれほどの時を過ごした事だろう。
子犬と砂浜でじゃれ合う人影に癒されつつも、私の意識は再び、あの不思議な青年へと戻る。
「そういえばあの後も、確かに青年は店に居残り、平然と別の棚の骨董に見入っていた。」
「彼はシンから骨董が好きなのだ。」
「いや、もしかすると、割れた徳利の事を、気に入ていたのかもしれない。だから、割れても『買います』 なんて言ったんだ。」
「きっと、今ごろは接着剤か何かで、懸命に徳利の再生に努めているのだろう。」
「それなのに、私はほとんど行きずりの一見客で、徳利の形さえ、知らなかったのだ」
「いや、もしかすると、徳利は1300円ではなかったかも知れない。いや、1300円では済まなかったのかも知れない。」
「そして青年の愛したあの徳利こそ、鎌倉に静かに息づく『斜陽族の形見』だったかも知れない。」
傾きかけた夕日を受けて、シルエットにかわる江ノ島。
空は紅に染まり、真っ白な飛行機雲が一筋。
さらにその先には、刻々と褪せていく夕空。
やがてその向こうには、富士山が、くっきりと浮かび上がり、長かった今日の一日に「さよなら」と、別れを告げていた。
黄昏の江ノ島 | 夕闇迫る |