たった一回行ったくらいで、「熊野古道」について語るなんぞ、オリンピック選手に栄誉賞を授けるくらい、おこがましい事 とは知りつつ、
講師のおっちゃんの話が、あまりにわかりやすかったので、忘れぬように、記しておくことにする。
熊野詣の、第一次ブームは 1000年〜1200年頃 (平安・鎌倉時代)
熊野三山(本宮・新宮・那智)を中心とする熊野信仰は、平安時代 に始まっている。
中でも、天皇、上皇の利用された 中辺路 は、代表的なもの。
その後、時代が移ろい、用途も多彩になり、三山へ向かう様々なルートが開拓され、賑わった。
現存するルートは下記のとおり
- 紀路 中辺路・・・熊野詣の メインルート。上皇、法皇の辿った経路でもある。 そのため随所に 王子社 が設けられている。
- 紀路 大辺路・・・田辺〜紀伊半島を、海岸沿い にまわるコース。最も距離が長いが、風光明媚な景観で知られる。
- 高野山 小辺路・・・・高野山と、熊野三山の 二聖地を結ぶ ルート。 「果無街道」とも呼ばれ、畿内からの 最短経路。近世から盛んになる。 標高1000mを越える山路となる。
- 伊勢路・・・・・・・・伊勢詣の後、熊野へ向かう 一般庶民 のルート。近世以降、西國巡拝の巡礼者がふえる。峠越えに 古道のムードを残している。
- 大峰奥駈道・・・・吉野から 熊野へ向かう 修験者 のルート。山上ヶ岳、八経ヶ岳など、標高2000m級の山を尾根伝いに行く、もっとも厳しいルート
【上皇・法皇のルート】
- 京都(城南宮)〜(淀川)〜八軒屋・・・(紀路)・・・藤白・・・田辺・・・(中辺路)・・・熊野本宮大社〜(熊野川)〜熊野速玉大社・・・熊野那智大社・・・(大雲取り・小雲取り)・・・熊野本宮大社
- 第一回、上皇の熊野詣は、宇多院の907年
- 最後は、亀山院の1281年
- その間、花山院 、白河院、鳥羽院、後白河院など、上皇、法皇が詣でられた総回数は、1000回にも及ぶ。
【王子について】
- 上皇たち の辿られたルートには、「○○王子」という地名が残っている。
- 「王子」は、京都から熊野三山に至るまでの 信仰の道 をつなぐための 神社 だった。
- 「王子」はまた、熊野の分社 であり、旅籠などを含む 休憩所 をかね、和歌会や里神楽の催されることもあり まさしく 旅の安全を祈願する場 であった。
- 「九十九王子」と数字で呼ばれる事が多いが、これは実数ではなく、百=熊野三山 から、そこへ至るまでの道に付けられた数字 とも考えられる。
- 格式の高い社としては 海南市の藤代王子社、印南町の切目王子社、上富田町の稲葉根王子社、中辺路の滝尻王子社、本宮町の発心門王子社、の五社が上げられる
- 「王子」は、上皇・法皇の栄枯衰勢に伴ったが、足利将軍、紀州徳川家によって、復元、保存された記録もある。
【小辺路について】
- 真言密教の霊峰・高野山から熊野に至る 約72km のコース
- 今も一部に残る 石畳 は、近世 になって敷かれたものらしい。
- 道端には、33番〜1番までの石仏が、道中を見守ってくれている。これも 近世 に設置。(大正11年ごろ十津川・本宮の有志による) 中には 道標 を兼ねたものもある。
- 「小辺路」は、信仰 とともに、交易 にも利用された道でもあり、野迫川村 は 物資の集散地だった。
- 「果無峠」は、「十津川村」と「和歌山県本宮町」との 交流の場。 峠道が険しく、十津川からは干したシイタケ、イモの茎、薬草など、つとめて 軽い物 を運び、帰りには4斗(60kg)の 米 を担いだこともあった。「十津川村」は、米が取れず、そのために年貢も免除だったとか・・
- 1889年(明治22年)の 十津川洪水 で 村は大打撃。 住民の中には北海道に移住して 「新十津川村」を築いた足跡もある。
- その後、昭和の始めごろ、村は戸数減少の後、廃村になった。
【熊野古道 リンク】
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